明善の肖像

天明三年(1783年)儒学者高山畏斎が開設した学問所を起源とする本校の永い伝統の中に生きるすぐれた先人達をご紹介しています。【*生年順に記載】

 

■樺島 石梁 / Kabashima Sekiryo [1754~1827]

卓然たる江戸期の教育者

宝暦4年(1754)、荘島町に生まれる。幼いころは貧困のため、勉強もままならなかったが、11歳からようやく宮原南陸の塾に入る。29歳で藩主から奨励学資金を受け、30歳で念願の江戸遊学。

12年後には帰郷し、火事で消失していた藩校修道館再建に着手した。豪農・樋口甚蔵の協力で、「明善堂」を創建。後に校長となった。石梁は、学問の府では学派や格式にこだわらず、真っすぐに学問と向き合い子弟を育てた。


倉田 雲平 / Kurata Unpei [1815-1917]

つちやたび創始者

天貧困の中、8歳で父を無くした倉田雲平は、14歳で裕福な商人に養子として迎えられるが、17歳で倉田家再興を志し、母のもとへ戻る。

せんべい売りをしながら、長物師(衣服の縫製業)を一度は志すが挫折。一念発起して長崎で足袋づくりの修行にでかけ、明治5年、「つちやたび店」を開業した。

幾多の苦難を乗り越えながら、足袋の生産に励み、大正3年には、年産3万足に達し、その名は全国に知れわたるまでに成長する。

そして明治6年、のちの日華ゴムを経て月星ゴム・月星化成へと進展する「つちやたび合名会社」を組織したのである。


内藤 新吾 / Naito Shingo [1841-1917]

初代久留米市長

天保12年(1841)、日吉町に生まれる。明治22年(1889)、「市町村制」が施行され、全国で39の市が誕生した。

当時九州で市制を取り入れたのは福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島のいずれも、県庁所在地と久留米の6市。

当時の久留米市は、人口2万5千人、33の町がある小さな市だった。そして、初代の久留米市長に内藤新吾が選ばれた。

新吾は5年間、市長を務め、教育、衛生、土木、経済などに力を注ぎ、久留米の自治体としての基礎を作り上げた。

また、内藤は寒山と称し、詩や書に優れていた

 

■梅野 多喜蔵 / Umeno Takizo [1841-928] 

航海術の先達

天保12年(1841)、今の東町に生まれた梅野多喜蔵は、安政5年(1858)、江戸で、漢学・蘭学、また西洋砲術なども学ぶ。

元治元年(1864)、久留米藩最初の汽船「雄飛丸」で修行を積む。当時の久留米藩は開国と殖産興業を基礎とする富国強兵の方針を掲げ、西洋型の兵制と軍艦保有を急いでいた。そのため多くの藩士が江戸や長崎に修行に派遣されていたのである。

多喜蔵はさらに勝海舟の管理する訓練所で、数学、測量、航海術などを学ぶ。各地で勤皇佐幕の内乱が頻発する中にあって、文明の新知識を求め、ひたすら学んだ。

帰郷後は、千歳丸(600トン)の士官の任に就き、沿海貿易や輸送にも力を出した。

日本の汽船航海士の先達であった多喜蔵は、船を下りてからは、知識や経験を伝えるべく教育者となり、久留米中学校(今の明善高校)の初代校長をつとめた。

 

■柘植 善吾 / Tsuge Zengo [1842-1903]

久留米藩最初の留学生

 

天保13年(1842)、十間屋敷(現日吉町)に生まれる。

22歳の時、藩の命を受けて長崎英学塾に入る。慶応2年(1866)、長崎のイギリス領事館員アストンが久留米藩主を訪れたときには、同行した善吾が通訳を務めた。

翌年には合衆国・ボストンに留学。途中パリ、ロンドンにも滞在し、若い感性は西洋文化を次々と吸収していった。

2年後帰国、藩軍艦千歳丸艦長となる。明治5年(1872)宮本洋学校長となり、有為の人材を輩出した。

 

細見  保 / Hosomi Tamotsu [1858-1936]

久留米高女創立の恩人

安政5年(1858)京町に生まれた細見保は、慶応2年に9歳で藩校明善堂に入り、学問の素晴らしさに触れ、明治8年(1875)長崎師範学校に進み、卒業後はその一生を教育に捧げた。

九州各地の小学校の校長を務め、明治25年、久留米高等小学校の校長に任ぜられると、このころから、女子教育の必要性と、これが急務であることを大いに説く。

教育市長として知られる田中順信久留米市長と意気投合して、共にその実現に努力。明治30年、福岡県下で最初の久留米市高等女学校を創設した。

細見保は、田中順信、
星野房子=女子教育の必要性を訴え、私財を投じて高女創立をバックアップした)と並び、久留米高女三大恩人といわれている。

 

浅野 陽吉 /Asano Youkichi [1868-1944]

久留米の近代化に尽力

明治25年東京高等商業学校を卒業後、明治29年久留米実業会会長に就任、さらに、明治32年の商業会議所設立を実現した。

また、久留米商業高校の校長として同校の基礎確立に取り組むとともに、同じ頃久留米図書館の設立に関わり、その牽引車的役割を果たした。

その後衆議院議員に当選し、久留米電燈株式会社の創立、第18師団の誘致活動など久留米の発展にも力を尽くした。

晩年は郷土研究に没頭し、「稲次因幡正誠伝と五穀神社記」、「久留米藩文化事業史と十志士の面影」など多くの著作を残した。

 

星野 房子 / Hoshino Fusako [1868~1951]

女性解放の先覚者

慶応4年(1868)、通町に生まれる。女子中等教育の機会のなかった時代に久留米中学校(明善校の前身)に学び、男女共学以前の明善校卒業生の中に唯一その名をとどめている。

房子は早くから男女平等の思想を抱き「男子同様に学問を修めること」の大切さを説いた。

明治20年(1887)、久留米婦人協会を組織、女子教育の普及に努める。また、久留米高等女学校の創設にあたり物心ともに尽力。

さらに、久留米で初の幼稚園、女子職業学校、久留米慈善病院など次々と開設した

 

黒岩 萬次郎 / Kuroiwa Manjiro [1878-1954]

久留米市誌の編纂を成した郷土史家

明治2年(1869)、篠山町に生まれる。

小学校、高等小学校教員を経て明治30年、市立久留米高等女学校の創立とともに同校教諭となり、その基礎を築く。

また、早くから郷土史の研究に熱心であり、明治43年に武藤直治らとともに筑後史談会を結成、郷土史研究の発展に尽した。

さらに研究の集大成として、大正14年(1925)に「福岡県三潴郡誌」や4年間の歳月をかけ、昭和7年に「久留米市誌」を刊行、郷土の歴史の全貌を知る貴重な資料となった。

収集した資料は「黒岩文庫」として残っている。

 

武藤 直治 / Muto Naoharu [1871-1960]

方言研究の実学的郷土史家

明治4年(1871)生まれる。

直治14歳の時、父親が他界し、そのため中学明善校を中退、小学校の代用教員となって一家を支えた。

大正8年久留米高等女学校校長となり、以後50余年にわたり教育に心血を注いだ。

さらに、郷土教育のため方言調査に取り組み、郷土史論文や報告書を書き、郷土史家としても数々の業績を残した。

武藤直治は、大地にじっくりと足をつけ、実地に調査するという研究姿勢を貫き、郷土の史跡と文化財の顕彰、保存に大きな功績を残した。

 

川口 孫治郎 / Kawaguchi Magojiro [1873-1937]

スーパー・バードウォッチャー

 

明治6年(1873)、和歌山県に生まれる。

大正9年(1920)に中学明善校校長として赴任し、その後久留米を永住の地とした。

優れた教育者であった川口孫治郎は、名校長として名をはせる一方、ライフワークとして、鳥の生態研究に取り組んだ。

粗末な猟服に地下足袋ばき、食料や研究資料を入れたリュックを背負って、単身で全国各地を旅し、野宿もいとわず研究を続けた。

彼の数多くの立証的研究や新発見は、日本の鳥類学界に大きな影響を与えている。

 

高島 宇朗 / Takashima Uro [1878~1954]

近代詩人

明治11年(1878)、合川村(現東合川町)に生まれる。

中学明善校を中退し上京。詩作にふけり、文学活動に熱中した。明治36年、青木繁と知り合い親友となる。

房州布良海岸を表現した自作の詩を聞かせ、青木にその素晴らしい景観を吹き込み、名作「海の幸」をもたらす。

帰郷後、野中町の旧久留米藩家老別邸を「林泉共鳴居」と命名し居を構え、詩作と禅修業に明け暮れる孤高の日々を送った。

画家の高島野十朗の兄でもある。代表作は「せせらぎ集」「眼花集」など。

 

青木  繁 / Aoki Shigeru [1882-1911]

近代洋画の鬼才

明治15年(1882)、荘島町に生まれる。

郷土の画家・坂本繁二郎とは、同じ年の生まれで、高等小学校でも同級となる。中学を退学し、17歳で上京、小山正太郎の洋画塾不同舎に入門、翌年東京美術学校に入学する。

青木は、文学的な発想を好み、ただ絵の技術だけで事足れりとせず、美術の本質は何かという内省的な態度で、絶えず観念の世界とのつながりを追求していたという。

明治44年(1911)に、28歳という短い生涯を閉じるまでの間、「海の幸」、「わだつみのいろこの宮」をはじめとする幻想的な名作を描き、明治洋画・浪漫派の鬼才の名を残した。

 

本間 一郎 /Honma Ichiro [1889-1963]

地域の発展に尽くした小児科の神様

本間一郎は、明治22年(1889)両替町(今の城南町)に生まれる。

九州帝国大学医学部を卒業後、父親の病院を継ぎ、小児科医となる。すぐれた診療と熱意にあふれる人間性が評価され「小児科の神様」と呼ばれる。

さらに教育界・市政・実業界でも数々の要職をつとめ、大きな功績を残した。

教育界では九州医学専門学校(現久留米大学医学部)の創立に心血を注ぎ、戦後の学校存続に際しては、理事長として手腕を発揮した。

戦後の荒廃した街・青少年を憂い、芸術文化、スポーツ分野でも非凡な活躍を続け、石橋財団久留米教育クラブ、久留米音協協会、久留米剣道連盟、久留米防犯協会、奉仕活動のロータリークラブの設立に参画した。

実業界では、盟友の中原隆三郎らとともに、旭屋デパート(今の井筒屋 *2016-久留米シティプラザ)創業にかかわる。その旭屋の一角で九州朝日放送・KBCを開局、前述の中原の後を受け社長に就任した。

出力1キロワットでスタートしたラジオ局を福岡に進出させ、同時にテレビ放送の免許も取得、今日のKBC九州朝日放送の基礎を築いた。その他医療用酸素製造の魁となった福岡酸素(株)の設立に参画し、永く社長を務めた。

「何事であれ、関係したことには情熱を注ぎ、必ず責任を持つ」この信条を貫いた生涯であった。

 

高島 野十郎 / Takashima Yajuro [1890-1975]

孤高の画家

明治23年(1890)、御井郡合川村(現久留米市東合川)に生まれる。

中学明善校に進み、東京帝国大学を卒業後、職に就かず絵の道へ。特定の師や絵画団体にも所属せず、また生涯独身であった。

生涯で数度しか個展を開催せず、作品はほとんど発表していない。

晩年は、静寂を求めて千葉県柏市に住む。没後、1980年代になってその写実的かつ神秘的な作品群が再評価された。

実の兄高島宇朗は詩人で、青木繁と親しく、そのため野十郎は青木に触発されて絵の道に入ったといわれている。

 

古賀 春江 / Koga Harue [1895-1933]

歩きつづけた前衛画家

明治28年(1895)、寺町に生まれる。中学明善校時代に絵画への情熱が燃え始め、松田諦晶に師事。

明治45年、17歳の時、中学を中退して上京、本格的に画家を目指す。27歳の年「埋葬」「二階より」の2作品で二科賞を受け、画壇における新人としての第一歩をしるした。

ある作品は詩的、あるいは幻想的、またあるものは観念的にと、彼の表現は変遷を続け、前衛絵画運動が展開した大正後期から昭和初期にかけて、特に際だった存在であった。

晩年の友人である川端康成も、その芸術性を高く評価したという。

青木繁、坂本繁二郎と並ぶ郷土を代表する画家で、「素朴な月夜」「鳥籠」など、代表作の多数が石橋美術館に所蔵されている。

 

山村 秀一 / Yamamura Shuichi [1896-1988]

筑後水彩画の草分け

明治29年(1896)、現在の山口県萩市の生まれながら、縁あって大正15年(1926)、30歳で福岡県立中学明善校の美術教諭として、久留米に赴任した。

当時は帰省していた古賀春江とも親交を深めたとも伝えられている。以来教鞭を取るかたわら水彩画の制作を続け、日本水彩画協会会員に推挙される。

さらに、西部水彩画協会を設立して水彩画の発展と普及にも力を注いだ。また、明善校の美術教諭として定年まで勤め、多くの美術家を世に送り出し、いわゆる明善美術山脈を形成した。

*資料協力:
石橋美術館

 

豊田 勝明 / Toyota Katsuaki [1897-1972]

現代工芸の旗手

明治30年(1897)、荘島町に生まれる。

東京美術学校鋳造科に進み、大正12年(1923)研究科を卒業後、東京高等工芸学校助教授となる。

学生指導のかたわら、金工・染織・陶芸作家らを加えた新進作家グループ「无型(むけい)」を結成して新感覚派運動を興す。

旧来の様式から抜け出た感覚的、構成的な作風で、現代工芸の草創期の旗手として活躍、生涯にわたって優れた作品を発表した。

後に、佐賀大学教授、福岡県工芸美術家協会会長などを務め、また、鳥類センターの「小鳥の泉」などパブリックスペースの作品や、田中久重像、真木和泉守像など数多くを手がけた。

 

伊藤 静尾 / Ito Shizuo [1902-1971]

筑後の「土の画家」

明治35年(1902)、浮羽郡の農家に生まれる。

本名は「静」。大正8年(1919)画家を目指して中学明善を中退し上京、日本美術学校に入学する。大正13年(1924)に同校を卒業、久留米に住む。

第20回二科展に入選以来、二科会を舞台に作品の発表を続けるとともに、地元で江南画塾を主宰し、多くの後進を育てた。

昭和9年(1934)年の二科西人社の創設にかかわり、その後も中心的役割を果たす。生涯にわたって、筑後の風土を一貫して描き続け、特に「土」を描いたものが多く、「土の画家」との異名をとった。

*資料協力:石橋美術館/「筑後洋画の系譜」展・図録

 

内野 秀美 / Uchino Hidemi [1911-1998]

地域の芸術・文化リーダー

明治44年(1911)、北野町生まれ。

大正9年、9歳で油絵を描く。映画制作を夢見て、日大芸術学部に入学するも、病に倒れ挫折。その後は絵画の道を決意、昭和10年東京の本郷絵画研究所で学ぶ。

復員後は、久留米で制作を続け、昭和24年、西部示現会を結成、作品はリアリズムから抽象表現へと移行、櫨や装飾古墳の壁画をテーマに優雅で個性的な作品を数多く描いた。

一方、昭和24年、久留米連合文化会が西日本初の総合文化団体として発足した際には、中心的役割を果たした。

昭和46年からは、同会の会長として文学、美術、音楽、芸能の大所帯をまとめ、総合美術展、現代九州彫刻展と公募展を次々と成功させるなど、地域文化活動のリーダーとして、偉大な足跡をのこした。

また、久留米市文化賞、西日本文化賞、文部大臣表彰など輝かしい受賞歴を持つ。生前、彼は「町に、公園に花を植えるように、人の心に花を植えたい」と語った。

 

河北 倫明 / Kawakita Michiaki [1914-1995]

比類なき美術評論家

美術評論家・河北倫明は、東京国立近代美術館次長、京都国立近代美術館長、横浜美術館長などを歴任、文化功労者としても表彰され、その活動は美術界に大きな功績を残した。

河北は大正3年(1914)浮羽郡山春村(現・浮羽町)生まれ、旧中学明善校から第五高等学校、京都帝国大学を卒業後、文部省美術研究所に勤務、近代洋画の鬼才・青木繁を研究テーマに選び、日本日本美術史にその評価を定めることに力を尽くした。

その後も、近代日本美術史研究の先駆者として研究を続け、美術評論を次々と発表。

また、東京・京都の国立近代美術館の創設にも深く携わり、美術史家、美術館人としても比類なき存在だった。

河北は良寛の「花開くとき蝶来たる、蝶来たる時花開く」という句になぞらえて、「花を作品とすれば蝶は美術評論家、蝶の動きがあって花は生きてくる」とし、生涯を美しい蝶として芸術のために捧げた。

 

岸田  勉 / Kishida Tsutomu [1915-1982]

美術文化の啓発者

大正4年(1915)、篠山町に生まれ、九州大学卒業後、西日本新聞社を経て佐賀大学、九州芸術工科大学等の教授を歴任。

昭和20年(1945)、発起人となって、坂本繁二郎を委員長に西部美術協会を結成、続いて美術雑誌『西部美術』を創刊、さらに、久留米連合文化会の前身となる「久留米文化の会」を結成するなど、戦後の文化の復興に情熱を燃やした。

岸田はまた、現代九州彫刻展、西日本美術展など、九州地区の主要な美術展の審査活動を行うとともに、美術評論活動を行い、新進画家の発掘に貢献した。

近代洋画の研究者としても著名で、著書には、『美術概論』、『美術史概論』、『近代の美術・坂本繁二郎』などがある。

福岡・佐賀両県の文化財保護審議会委員、久留米市文化財専門委員長、久留米絣技術保存会理事、久留米市史編纂委員長などをつとめ、昭和53年(1978)、石橋美術館長に就任。昭和51年(1976)には「久留米市文化章」を受章した。

 

丸山  豊 /Maruyama Yutaka [1915-1989]

ふるさとの詩人

大正4年(1915)、八女郡広川町に生まれ、後に久留米に移る。

医師であり優れた詩人でもあった彼は、少年時代から詩作をはじめ、学生時代に詩誌「ぽえむ」、詩集「玻璃の乳房」を刊行した。

軍医を経て戦後は医院を開業しながら、詩誌「母音」を創刊、随筆「月白の道」などを発表。

久留米市文化章、西日本文化賞なども受賞し、社会の各分野でも幅広く活躍した。毎年、詩碑を囲む「母音祭」が開かれている。

市内の幼稚園から大学まで25の校歌の作詞も手掛けたことでも広く知られている。

 

石橋幹一郎 /Ishibashi Kanichiro [1920-1997]

郷土を愛した名誉市民

大正9年(1920)石橋幹一郎は、ブリヂストンタイヤ[現在の(株)ブリヂストン]の創業者・石橋正二郎(久留米市名誉市民)の長男として京町に生まれる。

中学明善校、福岡高校、東京帝国大学を経て、昭和20年にブリヂストンタイヤに入社、38年に代表取締役社長に就任し、会長、名誉会長、相談役を歴任した。

モータリゼーションの隆盛を見通し、優れた経営手腕を発揮、会社は国際的な「ブリヂストン」に成長。創業の地・久留米市も大きく注目された。

幹一郎は郷土久留米をこよなく愛し、正二郎の遺志を継ぎ、石橋美術館の改築など文化施設整備に力を尽くした。

平成8年に建設・寄贈された石橋美術館別館は、石橋コレクションの日本画や陶磁器などが所蔵され、展示の充実が図られた。

昭和55年、その大いなる功績を称え「名誉市民」の称号が贈られた。

 

藤田 吉香 / Fujita Yoshika [1929-1999]

現代洋画の巨匠

昭和4年(1929)、久留米に生まれる。

昭和24年(1949)、松田塾に入り、松田実(諦晶)から洋画を学ぶ。昭和30年、東京芸術大学を卒業。 その後スペインに留学し、プラド美術館で常設作品4点の模写を行う。

帰国後の昭和45年、洋画界の登竜門として知られる安井賞を受賞した。

ボタンなどの花を主とした静物画を多く描き、背景に金ぱくを用いるなど、日本画的な技法も好んで用い、味わいに特長があった。

昭和56年、宮本三郎賞を受賞。国画会会員。

 

本間 四郎 / Honma Shiro [1931-2000]

ひびけ音楽 笑顔をのせて  

ひびけ音楽 ふるさと讃歌

本間四郎は、昭和5年(1930)両替町(現城南町)に生まれる。

独学のピアノは天才的で、小学生ながら式典で先生の代わりに弾いていた。

中学明善校で、
中村八大と合唱団を結成し、本格的に音楽活動を開始。

生涯、医者・音楽家として二足のわらじをはき、音楽療法で優れた成果を上げるなど、稀有の実績を残した。

久留米音協合唱団の結成以来常任指揮者を務め、合唱組曲「筑後川」の初演を手がけた。

昭和63年には市内の約50の音楽団体からなる久留米音楽連合協議会を結成、理事長としてふるさとの音楽団体をリードする一方、小中学校の校歌をはじめ、多くの作詞・作曲、並びに合唱編曲を手掛け、地域の音楽に貢献した功績は計り知れない。

 

中村 八大 / Nakamura Hachidai [1931-1992]

永く人々の心に残る作曲家

昭和6年、中国・青島に生まれる。

昭和19年家族と共に、久留米に引き揚げる。その後、明善高校から早稲田大学に入学。

在学中よりジャズピアニストとして活躍、「ビッグ・フォー」などに参加し大人気となる。

昭和36年に公表された第1回レコード大賞受賞曲「黒い花びら」(作詞:永六輔)を皮切りに、「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」など多数の作品を作曲、生涯を通じた演奏活動とともに永く人々の心に残る音楽活動を行う。

 

松本英一郎 /Matsumoto Eiichiro [1932-2001]

ユニークな絵画世界

松本は昭和7年(1932)久留米市に生まれた。

東京芸術大学油画科・専攻科に学び、昭和32年(1957)第25回独立展で初入選、翌1958年から3年続けて独立賞を受賞した。

以後は独立美術協会会員となり、独立展を中心に活躍した。

60年代中期に紅白の幔幕と人物を描く「平均的肥満体」のシリーズで注目を浴び、70年代からは茶畑や山並みを描く「退屈な風景」、晩年は「花と雲と牛」「花あかり」のシリーズの連作を、飽くことなく描き続けた。

それらは一見するとまさに「退屈な風景」のようだが、それら全体を概観してみると、特有のユーモアと批判精神によって眺望された戦後日本を象徴する情景が、類をみない独自の絵画世界として表現されている。

多摩美術大学の教授として、美術教育にも力を注いだが、在職中の平成13(2001)年に惜しくも亡くなった。

 

*掲載している肖像イラストと文章は、本校卒業生坂本豊信氏により[カルキャッチ通信久留米市ふるさと文化創生市民協会]の表紙絵として提供されたものです。

 

■Author PROFILE : 坂本 豊信 Sakamoto Toyonobu

昭和33年(1958年)、久留米市諏訪野町に生まれる。昭和52年明善高校卒。佐賀大学を卒業後久留米市役所入所。

市政広報誌「市政くるめ」のイラストや市の事業ポスター、パンフレットなど数多くを手がける。

趣味の油彩の他、水彩やイラストなど幅広く制作するかたわら「カルキャッチくるめ通信:久留米市ふるさと文化創生市民協会刊」の表紙「ふるさとの肖像:1993年4月~」を企画、久留米市の著名な人物像を描いた。





























 

 

福岡県立明善高等学校〒830-0022福岡県久留米市城南町9-1
Tel:0942-32-5241 Fax:0942-32-9761
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